障害のある人のハンディキャップ(社会的不利)、個人じゃなく社会で考えませんか?
「障害に打ち克つ」とか「障害に負けないように頑張って」っていう風潮がテレビ番組とかでもあったりしますよね。
でもね、障害ってね、障害のある人一人でどうにかするものって考え方はどうなのかな?
障害のある人が抱えるハンディキャップ。これは「社会的不利」って言われるように、障害のある人が、社会で生きて行く中で抱える不利。
だったら障害は、個人でどうにかするものじゃなく、「社会」で向き合うことじゃないのかな?
今日は、そんな事を考えてみたいと思います。
障害で生まれるハンディキャップ(社会的不利)
障害のある人とない人の間にはどうしても障害の特性に由来する能力差があるんだよね。
それが、「ハンディキャップ」というわけなんだけど、日本では、そのギャップを障害のある人の努力で克服させようとする風潮がまだまだ強いよね。
例えば、
- みんなと同じ学校に行きたかったら、「あなたが努力しなさい」
- みんなと同じクラスで学びたければ「あなたが努力しなさい」
- 希望する職場に就職したかったら「あなたが努力しなさい」
ってね…。
そんなハンディキャップの隔たりを、障害のある人の努力だけで埋めて初めて「対等」になるのっておかしくないかな? 障害のある人だってない人だって歩み寄るのは本当はどっちでもいいはずだよね。でもこういう事に気づいてさえいない人は多いのが現状だし、「なぜ私が歩み寄らなきゃいけないの?」って言う障害のない人がいるのも事実…。
こんな風にね、障害のある人の置かれた環境ってまだまだ「フェア・公平」からは遠く離れてるように思う。
それは、
- 元々持って生まれた障害からくる困難の部分と、
- その困難があるにも関わらずその点を配慮してもらえない事、そして、
- その困難をカバーする為に障害のない人がしなくていい努力をしてるのを「社会の中で生きるには当然の努力」とされてる現状がまだまだ見過ごされているからなんだと思う。
「障害があるからやらなくてもいいんだよ」は、優しさなの?
また逆にね、「障害があるんだから、やらなくてもいいんだよ」っていう人なんかもいるんだよね。
これは一見「やさしさ」とか「公平」みたいに見られがちだけど、「やりたい」と「できない」を混同しちゃいけないと思うんだよね。
「障害があって○△するのが難しい/できない」っていうのは、「やりたくない」ではないよね。
障害のある人の「やりたい」っていう気持ちを「できないんだから無理してやらなくていいんだよ」っていう言葉で遮ぎってその場をおさめるのは、優しさでもなんでもなく、歩み寄りの放棄だよね。でもね、こういうことで「あ~私いいことした~」って満足感に浸る人がいるんだけど、こういう人には「障害のある人も同じ一人の人」であることに気づいてほしいなぁって思う。
「みんなと同じようにやりたい」っていう気持ちは、障害があろうがなかろうが、みんなが持つ気持ちだもんね。
こんな風にね、「フェアな社会」っていうのは、「誰もが同じ事を同じだけでする事を平等に課す」っていうのじゃなくてね、「その人ひとりひとりの状況に合わせて、助けが必要な部分を調整したり助け合う事」っていうような社会であってほしいな。
ハンディキャップをみんなで埋めていこうとするのが当たり前な社会。
障害を理由に社会参加の選択を制限するのはもうやめてほしいな。
障害のある人も障害のない人と同じように「やってみたい」って思う事に参加できるようになってほしい。
今日はね、ちょっと最近ブログを始めてコメントとかをいただいた中で、色々考えていたわたしの気持ちをアウトプットしてみました。
おわりに
そして、最後にもう一つこの場を借りて言いたいこと。
よくね、障害の理解を求めると、「そうですよね、誰だって自分も事故とか病気でいつ障害者になるのかわからないんですから、自分の事として考えるべきです」という感じのお返事や感想をもらうことが多いんですが、いつもお返事に困ってたんです・・・。
私はね、障害のある人への理解を求めたりする時や、障害があることだけで障害のある人が社会参加等で不当な差別を受ける時、「誰もが当事者になる可能性があるから」っていう考えは好きじゃないんですよね。
そんな「自分が障害を持つ可能性があるから」って自分に置き換えた時にもしそれが起きた時へのセーフティネットじゃなく、
『自分以外の人が困ってる状況に対して自分のできる範囲で行動を起こす事はあたりまえだから』
っていう人が増えていってくれたらなって思ってるんです。
そうすればね、障害があるとかないとかだけじゃなく、色んな場面で困ってる人が救われると思うんですよね。例えば、優先座席の問題や、ベビーカーで公共の乗り物を利用したりする時なんかでも、「誰かが困ってる時、もし自分に余裕があれば助けてあげよう」「困ってそうだなぁ・・・。私にできることはないかな・・・」が当たり前になれば、救われる人が増えていくようにね。
そうやって自分の「余裕」を分けたことが、いつか直接自分には返ってこないかもしれない。
でもね、そんなひとりひとりの「余裕」を分け合うことが、恩送り・ペイフォーワードとなってたくさんの人が笑顔になれる毎日になればなって願っています。
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