ひろげていこう 発達障害のWA!~「困ってる子」という視点からの支援~

アスペルガー症候群やADHD、学習障害、自閉症などの発達障害の子は、困らせる子じゃない「困ってる子」。その視点から困ってることを解決する支援のヒントや工夫を考え、もっと発達障害の子たちから見えてる世界によりそっていきましょう!

支援教育の「平等」と「公平」について~我慢する子がいないインクルーシブ教育の姿を目指して~

SNSで発達障害について情報を発信していると、

「障害者の支援って言うけと、障害者のために健常者がなぜ我慢しないといけないのか!?」
「クラスにいる一人の障害児のせいでうちの子とか他のクラスの子が迷惑してるのは無視なのか?」

といったコメントをいただくことがたびたびあります。正直、そういったコメントを目の当たりにするのはつらいんですが、発達障害のある人たちのことを理解してもらうためには大切な意見であり、「こういう方の思いをそっちのけにした発達障害のある人の生きやすさ」というのは、目指すべき姿ではないんだと思います。

では、

「障害のある人の為に、障害がない人は迷惑を被っても我慢すべきなのか?」の問いに対する答えはどうでしょう。答えはNOです。

一方、
「障害のない人たちの生きやすさのために、障害のある人は我慢しなくちゃいけないのか?」の答えはどうですか?それだってNOなはずですよね。

この問題は、なかなか奥が深い問題なので、万人が納得する「正解」というのはないのかもしれませんが、今日はこういうことを踏まえて「平等とは?」「インクルーシブ教育とは?」について考えてみたいと思います。

 「平等」と「公平」について考えてみましょう

平等で起こる「あったらラッキー」と「なくては困る」

まず、この絵を見てください。

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Equalityは、平等・対等・均等という意味です。そしてJusticeは、公平や正義という意味です。
なので、Equality doesn't mean Justice. というのは、意訳すると


「みんな同じだけ」というのは一見正しく見えるけど、それは「公平」ではなく、「それで満足できる人もいれば、不十分な人もいる」という状態は「真の公平」ではないんですよ。

という感じです。

昔、こんなツイートをしたことがあります。 

どうでしょうか?「平等」の考え方、あなたはどんな風に考えてましたか?

アメリカのインクルーシブ教育と日本のインクルーシブ教育ってどんな風に違うの? 

では、このことを踏まえて、アメリカのインクルーシブ教育と、数年前(※)に私と息子が日本いた頃の日本の教育を比較して「みんな一緒」「公平」「インクルーシブ教育」とはどういうことか考えてみます。(※「数年前」というのは、今現在の日本の教育については私は語るべきではないと思いますのでこのように表現しております。)

日本のインクルーシブ教育の根底にあった考え方

左の絵は、当時の日本のインクルーシブ教育を描いています。

「箱が3個=先生のクラス全体に対する労力」と考えた場合、「生徒一人一人に均一」であることが良しとされていることを表しています。

一番左の背の高い子に箱はいりますか?背の高い子には「あったらラッキー」かもしれません。でも、真ん中の子には箱が一つ、右の子には箱が二つ「なくては困る」状態なんですよね。

アメリカのインクルーシブ教育

では、右の絵を見てみましょう。この絵は、「必要な子に必要な支援」が行き渡ってるインクルーシブ教育を表してるように思います。

必要な子に適切に必要な配慮がいきわたることで、みんなが同じように参加できてますよね。

アメリカの学校では、このスタイルです。なので、クラスの中に支援を必要とする子がいれば、その子に必要な支援が用意されます。

でも、この絵のように箱が三つで足りない、すなわち、担任の先生だけでは支援が満足にいきわたらない状態もあり得ますよね。そういう場合アメリカの教育システムでは、その子に対してさらに必要な支援(別の箱)を用意してくれます。例えば、教室の環境を整えたり、支援員さんをつけたりです。

例をあげてみます。

アメリカのある小学校で、障害のある子の支援に対して「不公平だ」と言う子がいました。
アメリカでは、障害のある子供たちは、州のテストなどを受ける時に、「時間の延長」や「別室で試験を受けること」などの配慮が、IEP(個別教育支援計画)で認められればそれらを選択することができます。その障害のある子には聴覚過敏があったので、落ち着いてテストを受けるために、別室でテストを受けることが認められていました。その子は算数が得意だったので、別室での試験で高得点を取りました。

それを他の子が「ずるい」と先生に文句を言ったのです。
で、先生は「あなたが算数でいい点数を取れなかったのが、教室が騒がしかったせいならば、次回から別室で受けられるよう相談しましょう。そうじゃなく、算数が難しくてテストが理解できないなら、それは先生の責任です。時間をとって一緒に対策を考えましょう」と毅然とした態度でその子に話しました。

きっとその子には「別室」は必要なかったんだと思います。でも、その子に必要な支援を、その子が障害があろうがなかろうが一緒に考える姿がそこにはありました。と、同時に、そのお子さんも「あの子にはそれが必要だから、それが公平なんだ」とその経験から学んだんだと思います。
これが、障害のある子にもない子にも「公平」な教育であり、インクルーシブ教育の根底にあるものだと思うんですよね。

インクルーシブ教育なのに、どうして誰もが同じ教室で学べないの?

では、もう一度左の絵(日本の数年前の教育システム)に戻りましょう。

「子供」に適性を求める日本のインクルーシブ教育

クラスに40人の生徒がいたとします。先生の労力=箱は40個だったとします。この状態で、先生の労力がクラスに均一にいきわたらせた場合、障害のある子には、そのクラスで過ごすのは難しいのかもしれません。

でも、箱を必要としないお子さんの箱をそれを必要な他の子に与えると「ずるい」という声があがります。

なので、学校は、障害のある子が普通クラスに参加する為に、【障害のある子に「ある一定の条件」】に達することを求めたわけです。他の子たちと同じように過ごせる責任を子供に課したんですよね。

インクルーシブ教育を可能にするために学校が適応するアメリカの教育システム

でもアメリカの小学校でのインクルーシブ教育は、障害のある子たちが普通級で過ごせるように【学校側が「障害のある子供たちが普通級で過ごせる手だて」】を用意してくれます。障害のある子が障害の無い子と同じ教室で同じように学ぶために、学校側がその責任を担ってるわけですね。

 

「障害のある子がそこにいるのが当たり前」→「だから必要な手立てを考えましょう」という前提があるアメリカのインクルーシブ教育とちがって、

「障害のある子を特別に同じ教室で過ごせるようにする」といったような考え方が日本のインクルーシブ教育にあるように感じます。障害のある子たちを「本来そこにいるべき子」という風に捉えてないのが根本的に違うんでしょうね…。

日本の学校は「えこひいき」がないことを平等(左の絵)と考える人が多いようですが、アメリカの学校は「誰もが同じように参加」できることが(右の絵)、公平、だと考えます。

こういう事を書くと、「それは理想論だけど予算が・・・」という意見を聞きます。でも、アメリカの教育は、お世辞にも予算がたくさん割り当てられてるとはいい難い状況です。それでも特別支援教育は当たり前に存在します。それはアメリカの人たちが、特別支援教育を「公平の為には当たり前のことだ」と考えているからなのですよね。

まとめ

「障害のある人の為に、障害がない人は迷惑を被っても我慢すべきなのか?」の問いに、今日このブログで語ったことが誰もが納得する答えにはなっていないかもしれません。

でも、「障害のある子も同じ教室で学ぶのが当たり前」といったことがもっと日本で当たり前の前提になれば、「公平」についての考え方も変わっていき、「迷惑」という考え方も変わって、「障害のある子もない子も、必要な支援が、その子に必要な時、必要なだけ行き届く」といった教室の姿が見られるようになるかもしれませんね。

それを私は、真のインクルーシブ教育の姿だと思っています。

 

ここまで読んでくださった方、最後までお付き合いいただきありがとうございました。