ひろげていこう 発達障害のWA!~「困ってる子」という視点からの支援~

アスペルガー症候群やADHD、学習障害、自閉症などの発達障害の子は、困らせる子じゃない「困ってる子」。その視点から困ってることを解決する支援のヒントや工夫を考え、もっと発達障害の子たちから見えてる世界によりそっていきましょう!

「盲人だけの国」から考える、障害とは?ハンディキャップとは?

Twitterで今「女だけの街」が話題ですが、最近読んだH.G.ウェルズというSF作家の「盲人の国」(英語ではThe Country of the Blind。「盲人国」という邦題の場合もあるらしいです。「タイム・マシン 他九篇」というウェルズの短篇集の中の一つのお話しです)という1904年に世に出た作品を今日は紹介したいと思います。 

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

 

作品は、「バリアフリー」とか「ユニバーサルデザイン(UD)」という言葉や概念がまだなかった頃に作られたのですが、「“障害がある”というのはどういうことなのか」「ハンディキャップとは?」「マジョリティ・マイノリティがもたらす“バリア”とは?」などなど、今現在私達が直面している問題を考えるヒントが満載なんです。

f:id:chubby_haha:20180128132042j:plain

 ではでは、簡単にストーリーを紹介します。

物語は、登山家“ヌネス”が滑落して、世の中から忘れ去られた峡谷にある「目の見えない人ばかりが住んでいる国」に迷い込んでしまうところから始まります。

「盲人の国」は、他の世界から取り残されて以来13世代。盲人国の先祖はみな視力を持っていたのですが、ある病気が流行って以降子供達は視力を持たず、眼球も持たずに生まれてくるようになり「見える」という概念や言葉が全くなくなってしまいました。

ヌネスは古いことわざ「盲人の国では、片目の者でも王様」を思い出し、盲人国で「見える」事をアドバンテージにして優位に立とうと目論みます。でもそうは問屋が卸さない。

盲人の国では「視覚」に全く頼らない生活スタイルが確立されていました。視覚に変わり、嗅覚・触覚・聴覚が鋭く進化していたからです。盲人国では暖かい昼間に休息をとり、寒くなった夜に働くといった生活スタイルが確立されていて、視覚を頼りに行動するヌネスにとって、真っ暗闇に中で移動したり仕事をしたりすることは全くの不利でしかありませんでした。へまばかり起こすヌネスは、足手まといでしかないし、王様になるどころか小ばかにされる対象でした。おまけに「見える」という事の素晴らしさを伝えることで、「自分が皆よりも優れている」ということを説き伏せようと何度も試みるヌネスですが、「見る」という概念が全くない盲人国の人達には「おかしなことを言うやつ」「頭がいかれている」と怪訝に思われるだけだったんです。

そんなヌネスは恋に落ちます。その結婚の条件が「両眼」を摘出する事でした。

というのも、“「見る」なんていうわけのわからない事をいうのはきっと盲人国の人達にはない「目」というクルクルした動く物体が脳に悪影響を与えているから、その「目」と言う悪性なものを取り除けば「見える」というわけのわからない事を言う脳の病気は治るだろう。病気が治れば結婚するに値する」と考えたからです。

ここで考えてみましょう。

  • 盲人国の登場人物が今私達の世界に来た場合、この物語の中で「障害 (能力障害・Disability)」があるのは誰ですか?
  • この物語の中で「障害」があるのは誰ですか?
  • 盲人国の登場人物が今私達の世界に来た場合、この物語の中で「機能障害(Impairment)」あるのは誰ですか?
  • この物語の中で「機能障害」があるのは誰ですか?
  • 盲人国の登場人物が今私達の世界に来た場合、ハンディ(社会的不利)を抱えるのは誰ですか?
  • この物語の中で、ハンディを抱えているのは誰ですか?
  • 盲人国の登場人物が今私達の世界に来た場合、マジョリティ・マイノリティは誰ですか?
  • この物語の中で、マジョリティ・マイノリティは誰ですか?
  • 「目」は手術で摘出すべき「悪しき物」ですか?
  • 「見える」という概念を説明する事は「おかしな発言」ですか? 
  • ヌネスは、盲人国の人が思うように、本当にドジでのろまで使い物にならない人ですか?

これらの質問の答えを考えた時、「能力障害とは何か?機能障害は何か?ハンディキャップとは何か?そしてそれらを決めている“要因”は一体何なのか?」が見えてくると思います。

最後の質問です。

  • ヌネスが盲人国で目を摘出する事なく皆と平和に暮らすために必要なことは何ですか?

その答えはきっと、ヌネスが「目が見える事をこれ以上説明することを諦める」ことでも「見えないふりをする」ことでも「我慢して他の人達に合わせる」ことでもないと思うんですよね。ヌネスは「ヌネスのまま」でいいはずです。

盲人国の人達が、「見える」と言う説明をおかしい事と決めつけず「かもしれない・・・」と歩み寄りを持とうとしたり、夜道の中で人にぶつからず歩けたり、作業できたりしない事を「能力が劣っている」と馬鹿にするのではなく、ヌネスにとってよりよい方法や環境について考えたり、ヌネスの要望をきこうとしてみたり。

一方ヌネスの立場では、自分の「アドバンテージかもしれない」という能力を、自分の利益の為に使おうとするんじゃなく、自分や盲人国の人達が「よりよく生きる」為に発揮できれば両者の溝は埋まっていたかもしれないんですよね。

こんな風に「相手を思いやる気持ち」「相手の立場を尊重する気持ち」「相手の存在をその人のあるがまま受け入れようとする姿勢」「違うという事に寛容的になる姿勢」を持つことで、「障害がある・ない」「ハンディがある・ない」「マイノリティ・マジョリティ」という対極にあるものが、歩み寄りいつかは融合していきこれらの言葉が存在すらしなくなるような状況が、究極のバリアフリーやユニバーサルデザインにあふれた街のある姿なのかもなって思います。

おかれた環境によって、人は障害のある人にもない人にもなるし、ハンディを負う人、負わない人にも成り得るんですよね。

その視点で考えると、障害を抱え、社会的不利を負っている人たちが暮らしやすい社会、学びやすい環境、必要な支援は何なのか?

100年以上も前に作られたこの作品は教えてくれています。